ワンダーランド・なぎさ亭

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<<   作成日時 : 2008/06/26 23:25   >>

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 梅原猛の「神々の流竄」を読んだ。出雲神話の舞台は実は出雲ではなく大和であり、神話の語られる日本書紀や古事記は政治権力を磐石にするための作為が施された書物なのではないか、といった視点はなかなか興味深い。今となってはどんなに説得力を持ちえたとしても蓋然性の高い推論でしかないけれども、歴史書とされるこれらの書物が当時の政治状況と密接な関わりを持つことは間違いないだろう。

 以前から、日本において崇められる神というものに僕は違和感を抱いていた。そこに教えがないからである。慈愛的な響きも感じられない。国家やその地方を司る、あるいは学問や恋愛の神様としてのみ存在している。アマテラスオオミノカミはイザナギノミコトの娘であり、弟にはスサノオノミコトがいる。このスサノオノミコトは乱暴者で、アマテラスに1度追放されたという。感情のもつれからお家騒動を展開するとは、ずいぶん人間臭い神たちだ。古事記に出てくる神は政治的意図から国を滅ぼしたり譲り受けたりするばかりか、闘争の末に別の神を殺害したりまでしている。率直に、これが神なのかと呆れ返ってしまう。子孫をこしらえたり(中には強姦といえる形を経ることさえある)政略を謀るのは、神様の行動としては相当に奇妙である。当時の氏族の姿を神話という形で反映したものと考えるのは自然の理といえよう。

 とすると、当然、これらの神を祭る神社というものも怪しい存在だ。氏族たちの祖先神を祭るのが目的であると同時に権力の象徴、人民を支配するための舞台装置であった。偶像崇拝という言葉が今さらながら頭をもたげる。そして、神社へお参りに行くのがアホらしくさえ思えてくる。もちろん、人々の清浄な思いが集う場所はなんとなくいい気が流れているように思えるし、掃き清められた境内、古い杉木立の中に身を置いていると落ち着くともいえるのだが、とにかくだんだんと神社に行かなくなってしまった。信じるか信じないかはともかくとして、神と向き合うことは神社に行かずとも可能ではないのか。当然、ここで向き合う神はなんとかのミコトとかそういう種類の神のことではない。日本人が神をうまくイメージできない理由は、神社の神が必要以上に尊大なもの、権力的なものとしてのみ意識されているからなのかもしれない。

 神社には何のご利益もないと主張する知人がいる。彼の家は商売をしているのだが、神社を真っ向否定する言葉をまくしたてる彼の背後の壁には戎神社の破魔矢が掲げられていた。よくわからない。儀礼的なものなのだろうか。僕がキリスト教系の学校を出たせいもあるのだろうけれど、形式的で呪縛的な側面のみが連綿と生き続ける日本の神というものにどうも馴染めない。それどころか、違和感が増大していくばかりである。

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