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zoom RSS 直喩→「勇気」……………(しりとりエッセイ)

<<   作成日時 : 2014/06/21 21:30   >>

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画像 東日本大震災のあと、アスリートの口から「勇気や感動を与えたい」という言葉が聞かれるようになった。これに対し、「与えるとは何様のつもりか」との批判をときどき目にする。

 批判する人の気持ちはわかるけれども、そこまで目くじらを立てるほどのこともないと思う。ふだん、スタジアムで自分の一挙手一投足を見て喜んだり嘆いたり、感情をあらわにする観客と接しているアスリートが、自らが勇気と感動を与えうる存在である、と考えるのは、ごく自然なことではないだろうか。「勇気をもらいました」「感動しました」というメッセージを直接受け取った経験だってあるに違いない。

 個人的意見を綴れば、スポーツを見て湧き上がってくる勇気や感動には、一般的な意味にとどまらない広い意味があると思う。たとえばプロ野球で尻餅をつくような大カラ振りをしたり、グラブからボールがこぼれ落ち、送球を焦った内野手が慌てふためくさまを見た観客は、みんな笑っている。採点競技や個人競技には必ずしも当てはまらないかもしれないが、多くのスポーツには、華麗なプレーだけでなく、コミカルなシーンがつきものである。いっとき観客としてスポーツに接した人々は、それらすべてから何がしかの肯定的、前向きな気分を得て帰路につく。その気分こそが勇気や感動ではないだろうか。

 スポーツを見る者の勇気や感動について、僕は以上のようなおおらかなものとして考えている。だから、もしアスリートが見る者に対し、

 「俺も頑張っているんだから、おまえたちも頑張れ」

 という気持ちで勇気や感動といった言葉を口にしているのだとしたら、それはちょっと傲慢だと思う。この場合は、

 「好きなことをやってたくさんお金をもらって、おまけにあんな綺麗な嫁さんがおったら、誰でも頑張れるっちゅうねん」

 というような反発を受けたとしても文句はいえない。

 綺麗な嫁さんという文言を書いたので余談として記しておくが、男性アスリートの結婚相手が揃いも揃って美人であることに立腹した知人が以前、

 「アスリートは美人と結婚してはいけない、交際してもいけないという法律があればいいのに。女優やモデルとつきあって世の中の男を落胆させておきながら、何が『勇気を与えたい』じゃ。やってることが矛盾してるやろ」

 とボヤいていた。つき合う女が美人かどうか、誰が判定するねん?と訊いたところ、

 「そういう機関を作るんやないか。俺が所長や。なぎさも交ぜたる。で、アスリートが俺らのもとに女を連れてお伺いに来るんや。この子とつきあってもかまへんやろかって。法を破ったらどうなるかって? そんなもん、罰は男としての極刑、去勢に決まってるやないか。麻酔なんかかけへんぞ。コーナンで買ってきた高枝切りバサミでジョキッといく。あとは赤チンでも塗っとけばええんや。チンチンがなくなったところに赤チン……これは、ちょっとしょうもないな」

 となかなか面白い妄想を開陳してくれた。この稿を書いているのは3月だが、飛びっきりの美女アスリートとして人気を博した元体操選手、田中理恵さんと巨人の坂本勇人選手のロマンスが報じられたばかりである。この妄想が現実のものとなったら、坂本選手は僕の知人が手にする高枝切りバサミによってシンボルを奪われ、宦官と化してしまうのだ。かわいそうに。でも、こんな世界が成立すると、アスリートがよく口にする「子供たちに夢を与える」の「夢」の一部が失われてしまうのではないだろうかと僕は危惧する。なぜなら、この「夢」には、将来、スポーツ選手になれば女子アナやモデルといった美女たちと楽しく過ごすことができる――ということも含まれていると思うから。……と、ここまで書いて、女子アスリートは男のそれと比較して旨みが極端に少ないような気がしてきた。

 話を本題に戻すと、勇気や感動を与えたいと発言するアスリートに拒否感情が働いてしまう人の心理には、自分が同様のことを発言できない立場ゆえの嫉妬が、心の片隅に存在しているように思う。また、アスリートのこうした発言を非難する人に、子供のころ、足が速くて運動会のヒーローだったという人はあまりいない。たいてい、体育の時間が憂鬱だった人である。体育の得意不得意は学校内のヒエラルキーに直結するという背景があるせいか、体育の授業の影響でアンチスポーツになった人が秘める思いには、言葉は悪いけれど私怨が潜んでいる。幼いころの犬に噛まれた経験がトラウマになった犬嫌いと同じで改心させるのは難しいが、これは学校の体育教育のありかた、あるいはスポーツを文化として広めてこなかった社会にも責任があるので、僻み根性のひとことで断罪するのは気の毒だ。

 すでに述べたとおり、スポーツにおいて、観客に芽生える勇気や感動が意味する範囲は広い。そうしたおおらかな基準でとらえれば、批判者自身も、たとえ身のまわりのわずかな人が対象であったとしても、勇気や感動を与えることが可能ではないだろうか。そういう発想の転換ができるか否かで、世界の見え方がずいぶんと変わってくると思う。

 中にはこんな形で勇気という単語を使う人もいる。全裸になるなど、何かとお騒がせなふるまいをしてテレビ等で完全に異端児扱いされているお笑い芸人、江頭2:50さんである。彼曰く、

 「人生に絶望している奴は俺のライブを見に来い。俺みたいなやつでも生きてるのを見たら勇気が湧いてくるぞ」

 勇気という言葉を使用するにあたって、アスリートが「俺も頑張っているんだから、おまえたちも頑張れ」という構図で使うよりは江頭2:50さんの使いかたのほうが、ずっと適切かもしれない。

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