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zoom RSS 東京五輪よ、どこへ行く

<<   作成日時 : 2016/05/26 21:30   >>

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画像 2020年に開かれる東京五輪が何かと物議を醸している。先日亡くなったザハ・ハティド氏の設計案に沿って建てられることがいったん決まった新国立競技場が、べらぼうに高い建設費が問題視され、世論の反発を受けて計画自体を白紙撤回したかと思えば、再コンペを経て新たに選ばれた案に聖火台を置く場所がないというまぬけな展開をみた。大会エンブレムは盗用疑惑が湧き起こり、こちらも1度決まったものを不採用とし、再び募集をかけるというドタバタ劇。そして、4月上旬になってまた新しい火種が持ち上がってきた。

 大会組織委員会が同年5月から11月までの期間、資材置き場や観客の待機場所として神宮球場を使わせてくれと打診した。その間、神宮球場では野球の試合をすることができない。ましてやプロ野球、大学野球、高校野球の予選等でスケジュールがびっしり埋まる期間である。球場側が困惑していることが報じられると当然、野球ファンの多くは大会組織委員会を激しく非難した。

 遠藤利明五輪担当大臣は「なぜおおごとになるのかわからない」とコメント。推測するに、

 「オリンピックは挙国一致で取り組む世界のスポーツイベントなんだぞ。同じスポーツ界として大きなイベントへ協力し、積極的に犠牲を払うのがあたりまえではないか」

 というような意識があったのではないだろうか。

 僕はここに体育会系的序列を見出す。「大事な試合が近いんだ。グラウンドはレギュラーが使う。残りの者はそこらへんを走っとけ」というのと通底する心理である。

 違和感を禁じえない。オリンピック……たしかに歓迎すべき結構なイベントだ。しかし、他者が長年親しんだスタジアムでスポーツをする機会、観る機会を奪う犠牲を強いてまでオリンピックを優先する姿勢が、未来のスポーツ像として正しいのか。僕には甚だ疑問である。

 それをいうのなら、と口を挟みたくなる人がおられることだろう。新国立競技場を建設するにあたり、近隣の霞ヶ丘アパートに住む人たちが立ち退きを強いられた。戦後まもないころに建てられた古い住宅である。高齢のかたも多い。そうした人たちに、オリンピックで使う競技場を作るから長年住み慣れた土地から去れ、と命令した。

 スポーツは人々の平和や幸福の上に成り立つものだ、と僕は考えている。この2つを侵されている人が、体を動かすにせよ観るにせよ、どうしてスポーツを楽しむことができよう。スタジアムを建設するにあたって誰かの生活環境を奪うことに引っかかりを覚えずにいられない。そこらへんの心ないディベロッパーと精神を同じくする人間に、スポーツに関連する事柄へ携わる資格はない――と書けば、非難の度が過ぎるだろうか。



 前に東京五輪が開かれた1964年は特殊な時代だった。戦後復興を成し遂げて高度経済成長へ突き進んだ時代で、五輪が開催されたことにより、日本が世界と肩を並べたという共通の認識があった。その6年後、1970年の大阪万博における熱狂も、高度経済成長期の祝祭であったと考えると説明がつく。だが、現在は当時とは明らかに世相が異なる。国民的大イベントが即好況へつながる時代ではないのだ。

 1964年の東京五輪開会前に東海道新幹線が開通、首都高速道路が拡張されるなど、オリンピックを機にインフラが急速に整備された。この勢いで以後も一気に整備が進められたインフラ、そして五輪をきっかけにより身近になったスポーツが、その事業単体の収益以上に社会へ貢献し続けていることに異論はないと思う。ただ、これらが社会資本(ソーシャルキャピタル)としての機能を十分に果たしているとはいえ、国が赤字国債を発行したのは五輪の翌年、1965年である。以後、国の借金は増え続けるばかり。オイルショックや人口構成の未来予測が外れて極端な少子化時代が到来するといった不運はあったにせよ、国家予算を動かす中枢にいた為政者の舵取りは社会資本がもたらす恩恵をはるかに超える出鱈目なものだった、と指摘しても、決して的外れな見方ではないだろう。

 昨年暮れ、大会組織委員会が2020年の東京五輪の費用を試算したところ、1兆8千億円に達するという。開催都市に立候補したときは約3千億円としていたから、6倍にも膨らんでいる。立候補するにあたってのアピールポイントは、過去に類を見ないコンパクトな五輪、という話だった。それなのに2012年のロンドン大会の費用、約2兆1千億円に迫っていて、森喜朗氏によれば「2兆円を超えるだろう」とのことである。これでは、どこがコンパクトなんだと公約違反を非難する人がいて当然だ。また、他地域に住む人が「東京が招致したんだから東京で賄ってくれよ。オリンピックはもともと都市の祭典なんだから国の金には手をつけるな」と言い出してもなんら不思議はない。

 五輪とパラリンピックを通じてスポーツをいかなる所へ位置づけたいのか。ビジョンや理念が見えてこないのが残念でならない。東日本大震災からの復興を内外に示すという名目はあるが、それはたぶん、ドキュメンタリー番組のナレーションみたいなものだろう。「プロ野球の長嶋・王、プロレスの力道山、そして東京オリンピックで金メダルを獲った“東洋の魔女”バレーボール女子日本代表は、戦後から高度経済成長の激動を生きる人々に夢と希望を与えたのでした」というのと同じように考えているのではないのか。だが、夢や希望などという形容はあくまで個人に帰すべきものであり、すべての人に適用して一般化すべきではない、と僕は思う。

 東京五輪はどこへ行くのか。このままだと、スタジアムやインフラの建設、運営にかかわる企業がたんまり儲けるだけで、あとに残るのは負の側面だけ――ということも考えられなくはない。



付記 現在、東京五輪のために神宮球場で野球ができない期間を7月から9月に短縮する方向で話し合いが進んでいる。ところが、今度は招致委員会がIOCの役員に多額の現金が渡していたことをフランスの検察当局が確認した、と英ガーディアン紙が報じた。世の中、きれいごとだけで済まないことは承知しているけれども、これでは「スポーツを文化に」などと言っても反発する人がいて当然のような気がする。


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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
理念の欠如を強く感じます。個人的には今改めて世界に平和を訴えるにはこれ以上ない機会だし、日本にしか出来ないのではないかと。政治というのでは全くなく、平和を希求する自然な願い、といいますか。ご指摘の通り既に矛盾点が出てますが。

ただ一方で、この神宮の件に限ってラグビーファンの大人しさには、好奇心に類する不思議さを感じています。私に限って言えば、私にとっての聖地は花園一択で、冷たいようですが秩父宮には愛着は無いのだけれど、仮にも聖地の一翼。

最大勢力であろう大学ラグビーファンから非難囂囂でもおかしくないのに、目立った抵抗が無いのは、こちらにも従の方向の体育会的感覚が発揮されているのか、より大きな象徴であった国立が無くなるので、秩父宮も無くなる事を自然ななりゆきと無意識のうちに捉えているのか。

ちょっと興味深く見ています。
よろいぐま
2016/05/27 20:29
 コメントありがとうございます。
 おっしゃるとおり、私も理念の欠如を感じておりまして本当に嘆かわしい。「秩父宮ロス」については4月1日のハーフタイムのコーヒーブレイク(126)に触れましたが、五輪期間中に駐車場となって新・神宮球場の建設後、新しくスタジアムを作るあいだの空白期間は痛いと思われます。体育会系的序列に従っているという見方もできますし、ひょっとしたら、新国立競技場の件で前ラグビー協会長の森喜朗氏とラグビーがさんざん叩かれたので、もう声を大きくできないという気持ちがあるのかもしれません。
なぎさ
2016/05/30 23:55

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