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zoom RSS “クマさん”後藤次男さんを偲ぶ

<<   作成日時 : 2016/06/04 21:30   >>

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画像 1969年、78年と2度、阪神タイガースの監督を務めた後藤次男さんが5月30日、老衰のために亡くなられていたことが阪神球団から発表された。享年92歳。後藤さんは熊本工業から法政大学を経て48年に阪神へ入団し、ルーキーイヤーに放った129安打は、98年に坪井智哉に抜かれるまで阪神の新人最多安打記録だった。そして49年から52年、4年連続で3割を記録した。しかし53年、試合中に鎖骨を折り、その後の経過がおもわしくなく成績が降下。57年に現役を引退した。

 後藤さんが最初に監督となった69年は2位だったが、2度目の78年は41勝80敗9引き分け、勝率は3割3分9厘と惨憺たる成績に終わった。当然、最下位である。69年は僕が生まれる前のことだったから、後藤さんについては幼年期の記憶に残っている78年の監督時代と、それ以降のサンテレビの解説者としての印象が強い。余談になるが、阪神のチアガール「Tigers girls」の誕生が他球団よりもかなり遅れをとった理由には、78年に1度、チアガールチームを結成して最下位に終わったのを受け、厄を払うかのように1年限りで解散したという背景がある。

 阪神の球団史を語る際、主力選手や首脳陣、フロント間における反目や内紛を避けて通ることはできない。しかし、後藤さんはひと癖もふた癖もある野武士集団とは一線を画す、温厚な人柄の持ち主として知られていた。僕は5年前に書いたしりとりエッセイの「熊」に、後藤さんのことを記している。今回、追悼の意を込め、後藤さんに関する記述部分を一部修正のうえ、再録する。


    ☆ ☆ ☆

 こんな話を見聞きするのが好き、というのが、誰にでもあると思う。僕の例を挙げると、それは、スポーツ選手のとてもやさしいエピソードである。

 ノンフィクション作家の後藤正治さんが、少年時代、阪神タイガースの往年の名選手、後藤次男さんにサインをもらった話を書いているのを、どこかで読んだことがある。京都の西京極球場へタイガースがやってきた。試合が終わったあと、球場の出口近辺で子供たちはサイン帳を片手に選手が出てくるのを待っているのだが、藤村富美男、田宮謙次郎といった当時のスターたる豪傑は威圧感が凄い。子供たちは遠巻きに眺めるだけで、誰1人、サインください、とは言い出せなかった。そこへ現われたのが後藤次男さんである。

 「みんな、順番に並んで」

 後藤次男さんは、その場にいた子供全員にサインをしてあげたのだった。

 1954年、のちに大毎へ移り、セパ両リーグに渡って活躍、320勝という金字塔を打ち立てる大投手がタイガースへ入団する。小山正明さんである。

 「バッティングピッチャーにはなるやろ」

 採用した球団は軽い気持ち、テスト生同然の入団であった。

 キャンプでバッティングピッチャーを務める小山さん。しかし、先輩打者たちは3球続けてボール球を投げようものなら、練習にならん、とバッターボックスをプイと外し、どこかへ行ってしまう。でも、後藤次男さんだけは違った。

 「僕、ボール球打つの、得意だから」

 そう言って、嫌な顔ひとつせず打ってくれたのだという。

 後藤次男さんは69年、78年にタイガースの監督を務めている。こう言っては失礼だが、人選に困ったときの代理監督といった風情が、なきにしもあらずだった。78年のチームスローガンは「みんな仲良くボチボチと」。監督の後藤さん以下、遠井吾郎さん、渡辺省三さんらコーチ陣はほとんど近隣に住んでいたので、コーチ会議を開く際、甲子園球場へ自転車に乗って集合したというエピソードがある。また、この年はタイガースが球団創設以来、初めて最下位へ沈んだ年である。試合後、監督の談話を聞きに来た記者たちといつのまにか反省会のようになることも常で、記者の誰かが、

 「榊原を1番に使ってみてはどうですか」

 と言うと、翌日のスコアボードのメンバー表、1番には榊原選手の名前がしっかり入っていた。

 微笑ましい話ばかり聞こえてくる後藤次男さんの周辺。彼の愛称は“クマさん”であった。

 しかし、山中の道路でときおり見かける「熊に注意」という看板が示す凶暴な熊ではないだろう。後藤次男さんは童謡「森のくまさん」に歌われているような、絵本に描かれる熊に違いない、と思う。



   ☆ ☆ ☆

 6月3日付のサンケイスポーツに掲載された、故人を偲ぶ関係者の談話は、どれも後藤さんの優しい性格を懐かしむ声ばかりだった。まず同紙の専属評論家、上田二朗さんの話を一部抜粋する。

 〈(前略)1978年、私は現役の投手でした。その年は3勝10敗とふがいない成績で最下位。でも、叱られたことは一度もなかった。ほとんどの選手もそうじゃないかな。「負ければ監督の責任。お前らは気にするな」と。「人がよすぎる」「性格的に監督には向いていない」と、よく言われたが、優しくて、包容力のある方でした。〉

 僕の手元には故・山際淳司さんの著書「プロ野球グラフィティ’84 阪神タイガース」(新潮文庫、絶版)がある。後藤さんは巻頭ルポルタージュ『阪神監督物語 歴代監督を訪ね歩く旅』に登場していた。山際さんのインタビューに答える後藤さんの言葉を、ここに書き記しておく。

 〈(前略)本物のスターというのはなかなか生まれない。人気に見合う実力をつけんといかんわけやから。そこらへん、きつう叱っていかないかんわけやけど、私は選手をよう怒れんかった。フロントにもいわれましたね。下を怒れる監督になれって……〉

 〈私は好きかってにやらせたほうやからね。ああせい、こうせいとこまかいことはいわなんだ。だから、いわゆる野武士タイプの選手は育ったと思う。口うるさくいわれないとダメな選手は伸びんかったかもしれんね。〉

 〈監督は人がいいばかりじゃダメや。これはいえる。私は厳しさが足りんかったと思うてます。〉

 78年に3割を打ち、球宴で3打席連続ホームランを打つなど、最下位のチームにあって孤軍奮闘した掛布雅之2軍監督は訃報を受け、サンケイスポーツの取材に以下のように答えている。

 「怒らない監督だったから、その裏側にある後藤さんのすごさみたいなのを感じる部分はあったよね。戦力がきちっと整っているときのチームなら、後藤さんのような監督はすごい力を発揮するんじゃないかな。だからそういう意味では、ご迷惑をおかけしたな…」

 冒頭に、阪神の球団史には反目や内紛がついてまわると書いた。後藤さんはそうしたじめじめした関係とは離れた場所で健気に、大地の奥深くへ根を下ろすタンポポのように生きた人だった。豪傑や熱血タイプが目立つのが昔の阪神ではあったが、今ふりかえると、温厚な後藤さんが、逆に強烈な個性として胸に沁み入ってくる。あらためて、ご冥福をお祈りする。

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