待合室→「ツバ」……………(しりとりエッセイ)

画像 最近はあまり耳にしなくなったが、かつて、プロ野球選手がグラウンドにツバを吐くのはみっともない、という批判がよく聞かれた。

 僕は子供のころ、ツバを吐く野球選手がカッコいいと思っていた。子供は変な対象に憧れるものだ。ピッチャーが投げ終わったあと、バッターボックスを外した打者がペッとやる。その際、いかにもツバを吐きますよというふうに地面に向かってお辞儀するのではなく、直立不動の姿勢を変えず、ツバをひと塊にしてスイカの種みたいにピュッと飛ばす。このルーティンワークに職人の匂いを感じとっていたのだった。

 当然、僕もプロ野球選手のようにツバを吐きたい、という欲求があった。学校の周囲の公園を走るマラソン大会のとき、さっそく試してみた。走りながら口中に溜まったツバをペッ。ところがツバはうまく飛んでくれず、口の下からアゴの下にかけてべっとりと付着した。傍からみれば単なるヨダレにしか見えなかっただろう。

 僕はツバを吐くのが下手だ。そう悟った僕は、カッコよくツバを吐く努力を金輪際やめた。それどころか、ツバを吐こうと思うことさえやめた。嘉門達夫さんのナンバーに「ヤンキーの兄ちゃんのうた」という曲がある。ヤンキーの特徴を羅列したこの曲は、〽ヤンキーの兄ちゃんはツバを吐く……のフレーズで始まる。ツバを吐かない僕は、ヤンキーには到底なれそうもなかった。

 かといって、ツバを吐く野球選手を糾弾する側へ回ったわけではない。もちろん、見ていてあまり気持ちのいいものではないが、緊張感の中でプレーしていればツバも溜まるでしょうよ、と大らかに考えている。

 ただし、すべてのアスリートがツバを吐くかといえばそんなことはない。屋内競技、たとえば柔道やバレーボールの選手が畳やコートの上にツバを吐くのを見たことはない。バレーボールの試合で、プレーが止まったわずかな時間、コート脇から係員が出てきて床に落ちた汗をせかせかとモップで拭いているのをよく見る。こんなところにツバを吐いたら、係員に対する嫌がらせ以外の何物でもないだろう。また、女子アスリートに関しては、屋外競技でもツバを吐く光景を目にしたことがない。やはり女子たるもの、ツバを吐くなどエチケットに反する、という意識があるのだろうか。

 屋内競技で選手がツバを吐く唯一といっていい例外は、僕の知る限り、プロレスである。ツバが吐かれた所で寝技の展開になったりしたら、さぞかし気分が悪いだろう、と思うのだが、彼らは頓着していないようだ。ただし、ここでも女子レスラーはツバを吐かない。

 20年くらい前、別冊宝島のプロレス特集本を読んでいたところ、大学のプロレス研究会に所属して学生プロレスをやっているアンちゃんにインタビューした記事が掲載されていた。仲間内で嫌われるのはどんな奴?という質問に対し、彼はこう答えた。

 「グレート・カブキの毒霧。どこの大学にも必ずいるんですよ。カブキみたいに顔面にペイントして、ヌンチャクを振り回して毒霧を噴射したがる奴が。でも、あれって結局、ツバでしょ。不潔だって嫌われてますね」

 これだけでカブキの毒霧というギミックがおおよそ想像できると思うが、カブキは口から赤や緑や青といった色の液体を霧状に噴射していた(口の中にそれぞれの色のカプセルを忍ばせていて、いざ噴射というときに噛み切るらしい)。デモンストレーションで披露するだけでなく、試合中、相手を攻撃するときにも使う。顔面に毒霧を噴射された相手はのたうち回って悶絶する。

 学生プロレスは所詮、素人の趣味だ。プロはカブキのツバをしっかり浴びてあげるけれど、趣味でやっている人間にはその覚悟がない。ときは1990年代初頭。不精なバンカラ学生が絶滅し、モテる以前の、あたりまえにクリアしていなければならない条件として清潔さが求められた時代である。猛者を気取る学生プロレスの連中も、さすがに清潔至上主義の風潮には抗えなかった。この年代がどっと社会へ出て家庭を持ったとなれば、除菌グッズ、抗菌グッズが一市場を形成して当然、という気がする。

 だが、これが異性との特別な状況となれば話は別だ。よっぽどの潔癖症でない限り、女の子との唾液交換(要するにディープキス)を嫌がる男はいない。泉麻人さんのコラムで、酔わせて口説こうとした女の子にキスした瞬間、ゲロを吐かれたという、ツバ以上の返礼を受けた男の話を読んだことがある。それでも彼はキスし続けたのだから、愛の力は偉大だ。

 ちなみに口腔衛生の専門家によると、朝起きたばかりの口の中は雑菌だらけで相当に不潔なのだそうだ。おはようのキスなんて、もってのほか。肛門を舐めるほうがまだ清潔とのことである。

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