羞恥→「稚児」……………(しりとりエッセイ)
日本に定着した仏教はもともと、女色も男色も禁じていた。しかし、寺院内が女人禁制となる中、同じ敷地内にいる男に対する情欲に甘くなるのは仕方のないことであろう。ただ、当事者たちも掟破りを疚しく感じてはいたらしい。そこで平安時代、寺院は「児灌頂(ちごかんじょう)」という儀式を制定した。これは稚児が男でも女でもない“仏の化身”となる儀式で、稚児は僧侶のチンポを肛門へ受け入れることによって救済をおこなう仏の化身、つまりアナルセックスは慈悲の行為なのだ、と定義づけた。
ずいぶんと勝手な理屈である。故・中島らもさんのエッセイに、入信資格が16歳から30歳の女性に限られ、教祖の男と性交できることを謳い文句にした「おじさんの方舟」という新興宗教が紹介されていたが(ただし信者数はゼロ)、それと根っこの部分は同じであろう。色欲が宗教的方便に使われているだけの話だ。
中流貴族の藤原隆兼の子の高僧、宗性(そうしょう)は36歳だった1237年に五箇条の起請文(誓いの言葉のようなもの)を残しているが、その中にこんな一文がある。
「現在までで九十五人である。男を犯すこと百人以上は淫欲を行うべきではないこと」
ここまでいけば2ケタと3ケタの違いなど、どうでもいいではないか、と思う。また、鎌倉時代に修行で用いられていたとされる経典の片隅には、当時の学僧による、
「稚児の尻を舐めたい」
という意味の落書きが記されている。中学や高校の男子トイレにおいて、艶っぽさを漂わせた女子生徒に対する劣情を綴った落書きをしばしば見かけたものだが、女に手を出せない僧は稚児がその対象だったわけだ。
また、1283年には三井寺と延暦寺のあいだで男色が原因の諍いも起きている。事の発端は三井寺の僧、浄珍が、12歳のときに延暦寺へ入門した覚如という名の美少年にぞっこん惚れ込んでしまったことにあった。浄珍は僧兵を延暦寺へ送り込み、覚如を強奪する。さらにまた別寺の僧が覚如を好きになり、浄珍のもとから連れ出そうとしたというから、この恋のバトルはまったく穏やかではない。
こういう出来事を知ると、昔日のテレビアニメ「一休さん」を見る目が歪んでしまう。和尚さんは、一休さんをはじめとする寺の修行僧たちを軒並み犯しまくっていたに違いないのだ。新右衛門さんも、ひょっとしたらそこに1枚噛んでいたりして。何はともあれ、三井寺と延暦寺の話などはボーイズラブの題材にうってつけではないかと思う。でも、主役が僧であるという点で絵にならない面があるか。それなら、貴族や戦国武将でもいい。このところ、BS民放の歴史番組でたまに戦国武将の男色が取り上げられている。僕はつい最近までそちら方面の話に無知で、教科書ではわからない日本史だ、と驚きを交えながら画面に目をやっているが、この手のボーイズラブコミックを大々的に流通させれば新しいクールジャパン、貴重な観光資源になるかもしれない。戦国時代末期の会津の大名、男色家かつ美貌の持ち主で合戦相手に見初められた逸話さえある蘆名盛隆など、格好のモデルであろう。
明治以降、近代化の過程にあって、日本の奔放な性文化は徹底的に忌み嫌われた。ただし女色に関しては、昭和30年代まで夜這いの風習がごくあたりまえに存在した地域があったように、時の権力による教育と実情は異なっていたといえなくもない。しかし、江戸時代までごく普通の嗜好であった男色は完全にマイノリティーと化した。その理由には、軍国主義へ傾倒する中、「産めよ増やせよ」のスローガンのもと、国策として多産が奨励されたことが考えられよう。あの全体主義体制下では、バイセクシャルでさえも精力の無駄遣いとされたのではないか。
今、世界的潮流に倣い、日本も同性愛、同性婚を認める方向へ傾きつつある。だが、かつての豊かな男色文化を考えると、欧米先進国に追従する消極的な姿勢で満足してはいけない。むしろ、日本こそが同性愛解放における世界のリーダーにふさわしいといっていいくらいだ。このところ、自称愛国の士たちによる排他的、強権的な言動が喧しい。しかし、その中に「正しい歴史認識のもと、同性愛を解放する美しい国になろう!」などと力説する人がいたら、オモロイ奴やないかと、ちょっと応援してしまいそうである。まあ、この種の愛国者たちが支持する政治家が理想に掲げるのは明治から終戦にかけての全体主義に適合する家制度だから、そんなことを言い出す人が現われる可能性は限りなくゼロに近いけれども。
参考文献 「日本男色物語 奈良時代の貴族から明治の文豪まで」(監修・武光誠 KANZEN刊)。
にほんブログ村
この記事へのコメント