いけず返しが心地よし~「京都ぎらい」(井上章一著・朝日新書)

画像 京都人がさす京都の範囲がきわめて限定されていることは僕も承知している。以前、モーニング娘にいたころの中澤裕子さんが、京都出身であることをささやかながらアピールしていた時期があった。それをテレビでたまたま見た僕は、控えめにしておいたほうがいいよ、と思った。中澤さんは福知山出身。京都市内に住む人は、福知山出身者が京都人を名乗ることを許さないだろうから。

 だが、それどころではないのだ。本書に逸話が紹介されているように宇治も山科も、そして著者の井上さんが生まれ育った嵯峨も、京都の洛中に住む人々からは京都と見做されず、田舎として蔑まされてきた。

 長年に渡って屈辱を味わってきた井上さんは、洛中人の中華思想、優越性の拠り所を掘り返してきて攻撃を加える。まず、東京を中心とするメディアが京都をかつぎ上げる姿勢を批判的に記したうえで、京都文化の象徴、芸妓や舞妓を支える一端を担っているのが僧侶の生臭さであることと、僧侶が代々管理運営してきた寺院仏閣が江戸幕府の手厚い支援を受けていたことを書く。さらに、東京のメディアが京都へ取材に出かけて寺院仏閣を写真撮影するにあたり、寸志を包む習わしがあることまで暴露する。洛中の誇りや選民意識が東京(江戸)という外部の権威のもとに成立していることを、回廊のようにしてあぶり出す論理展開が痛快だ。

 また、井上さんは江戸以前の室町、南北朝時代にも思いを馳せる。のちに吉野へ失脚する南朝は嵯峨に拠点があった。愛郷心から南朝びいきであることを告白したあと、当時の歴史を記していくのだが(本文ではもっと前の聖徳太子の時代、7世紀にまで触れられている)、そこまで時代を遡ってから現在方向へ光を照らして日本の近代史を考察する歴史論は、このところ、あまり耳にしない。それだけに新鮮で、知的探求心をくすぐる面白い読み物に仕上がっている。

 隣接する土地間において蔑んだり蔑まされる関係は、江戸時代の身分制度や朝鮮半島出身であることをルーツとする差別問題が根強い場所のほかにも案外、日本全国に存在するものである。本書で記されている洛中と洛外の関係は社会通念上、許容されている蔑みであり、ハゲやデブ、ブスを引き合いに出して語る“微妙な差別論”に共感した。南大阪出身の僕も、北大阪出身者からバカにした物言いをされた経験が少しながらあるからだ。その中には「大和川を越えた向こう側には野蛮人が住んでると思ってるから」などという少々行きすぎた言葉もあったが、僕にはそれもひっくるめて面白がる心の余裕があった。たぶん北大阪人は、東西に新幹線が通じ、大阪空港もある北大阪を外部との往来がさかんな開かれた土地であるとし、紀伊半島を南へ下るにつれて辺境の隘路へ入っていくような感覚を抱いているのだろう、と考えることをむしろ楽しんでいた。それに、大阪の南北には以上のような優劣意識は存在しないと主張する人もいるかもしれない。あったとしても、そうした意識に接することなく人生を送る人がいてもおかしくない、ほんの微々たるものだからである。

 しかし井上さんは、1冊の本になる量の文章を書くだけのエネルギーを溜め込んだ。

 洛中人のいやらしさを記した本書を、当の洛中人が読むとどんなふうに感じるのだろうか。忌々しいには違いない。でも、井上さんの筆致はのほほんとしていて、激するのも一定の範囲内に収まっている。本書には井上さん自身が舐めさせられた辛酸の等量分が投下されている、と考える穏やかさくらいはあってしかるべきだと僕は思う。

 本文中に〈洛中への意趣返しをもくろむ私は〉というくだりがある。僕は、京都の精神、それを育んだ歴史を解きほぐしていく本書を、意趣返しというよりは“いけず返し”ととらえた。洛中のいけずを洛外のいけずでもって返す。そう解釈すると、本書のラストが新たな味わいをもって心に染み入ってくる。ラストをここに引用して締めとしたい。

 〈ああ、京都の中華思想をふりかざす手合いと、今私は似たようなことを言っている。京都の近くに六十年もくらしてきたせいで、私もすっかり京都風に汚染されたのだろうか。私が自分と京都人のちがいを、あれこれあげつらいたくなるのは、そのためかもしれない。誰しも、似たものどうしのなかでこそ、自らをきわだたせようとするものである。〉


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この記事へのコメント

よろいぐま
2016年05月07日 09:31
長らく挨拶できておらず申し訳ありません。これは今ちょうど半分程度読みました。すぐ隣でうすうす感じていたことを、やっぱりそうなんかと、再発見できた心持ちです。

私としてはもうひとつの課題(?)は、この著作とは方向性が変わりますが、「大阪ぎらい」ですね。つまりは東京人の大阪ぎらい。

世間的には大阪人の方が東京人を嫌ってると思われてますが、あれはやや誤解で、お高くとまってる方々にいちゃもんをつけたいか、ネタにしてるだけ。

ところが東京人は時として、もう生理的というレベルで大阪人を嫌ってるように感じるのです。蛇足ですが関東のレフリーは総じて関西弁を嫌います。「(ボール)離せや」とか「対面カモやで」とか何でもない一言を注意されたりするのですが、関西弁だからとしか思えない。でも「京都ぎらい」にもあるように、京都は好きなんですよね。

これが要因かなという事は1つ2つはあるのですが、どなたかその正体を解き明かして欲しいものです。
なぎさ
2016年05月11日 21:32
 コメントありがとうございます。

 この本みたいに、ナショナリズムとはまた別の所にある微妙な部分をつつく地域感情の話はわりと好きです。

 東京人が京都を崇めるのに大阪を嫌う理由……まず京都は東京より前の都だったからという尊敬があるからではないでしょうか。そして、東京は遷都によって日本の本流を引き継いだという自負がある。当然、大阪に対するイメージは傍流。でも大阪は、かつてタモリさんがバカにした名古屋よりは強大で、東京から見れば、どこの馬の骨かわからぬ者が社交界で人気を集めているのを横目で疎ましくみるのと似た思いがあると推測します。

 言葉に関しては以下のように考えます。東京へ来た地方の人間はみんな方言を隠そうとする。しかし、大阪人は東京へ来ても臆することなく大阪弁を使い、まるで治そうとしない。その姿が傲岸不遜にも見えてイライラする。中央意識を持っている者にとって「堂々とした田舎者」はもっとも鼻につく。……そんなところではないかな、と。ただ、この論理でいくと東京のテレビへ大阪の芸人がなぜこんなにも重用されているのかがよくわかりません。

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